考察

「自分で考える」の罠

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最近はスマホのナビが優秀で,カーナビ買う必要がなくなってきましたよね。

米子とか松江とか,知らないところに行く場合は,スマホのナビを使います。そして,最近は近所でも使うようになりました。

 

この間,友達と賀露のお店にカニを食べに行きました。その後,「お風呂入りに行こう」ということなり,賀露からぽかぽか温泉に各自行くことになりました。

賀露からぽかぽか温泉(カインズホームのモールね)だと,おおまかに二通り行く方法があります。

で,それを考えるのがめんどくさくなりまして,ナビで行き方を検索しました。

 

僕が最近思っているのは「行き方に頭使うの無駄じゃね」ということです。

僕の場合,目的地の映像は頭に浮かんでいるのですが,そこまでの行き方ってちょっと考えないとわからないんですね。で,自分の頭使って,自分で考えた結果,効率が悪い道を選んでしまったりとか。それなら行き方をスマホのナビに教えてもらって,その通りに行く方が楽だなと思っています。

 

「自分で考える」って美徳と考えられているので,例えば,大人たちは子供たちに「自分で考えろ」ってよく言いますし,上司は部下に「自分で考えろ」ってよく言います。

 

でも「目的地への行き方」を自分で考えるって…効率悪くね?

 

指導者の役目は「できるだけ最短距離で指導の対象を目的地まで到着させる」ことです。指導者が「俺はこんなに苦労したから,お前らも同じ道を味わえ」とか言ってるとヤバイです。

この辺を勘違いしている指導者が多いように思います。

 

では,指導を受ける側(生徒)が「自分で考える」ことはしなくても良いのでしょうか?実はそうではありません。でも「目的地への行き方」を自分で考える必要はないんです。

 

目的地に「どのように」行くのかは自分で考えないといけません。

 

例えば,賀露からぽかぽか温泉に行く場合,行き方はナビが教えてくれたわけですが,僕は「できるだけ早く行くにはどうすれば良いか」とか「事故をしないように行くにはどうすれば良いか」ということは自分で考えないといけないわけです。

生徒が「自分で考えなければならないこと」は,提示された目的までの道筋を,「どうこなすか」とか,「どのようにこなすか」,「いつまでにこなすか」などなど,です。

もうちょっと言うと,道筋が与えられているから,「どのように」という部分が考えられるのかもしれません。

 

世の中の指導を受けている人は,そうやって指導者に教えられた上達する道筋を「軽視」して,自分で上手くなる方法を探そうとしている人が多いように思います。そして,そのほとんどは見当違いだし,再現性が低かったりします。

 

僕はもう自分で考えるのが面倒なので,本読んだり,人の話聞いたりして,「そのまま」実行しているだけです。

 

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ABOUT ME
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鳥取ダンススクールエルンフォ代表
鳥取市でストリートダンスを教えています。
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