無駄な努力のたとえ
今回は「それ無駄な努力じゃね?」と普段僕が感じていることについて書きます。
もうすでに科学的に「こうすれば良い」とかわかっていることに対して,自分が「うーん」と頭を悩ませる意味ってないですよね。
例えば「集中力を鍛えるにはどうすれば良いか」とか「腹筋割るにはどうすれば良いのか」とか,もうすでに「既出」で,現時点でほぼわかっていることなので,これを素直にやれば良いわけです。
でも多くの人は「どやったら腹筋割れるんだろう」ということを考えることに時間を費やしているわけです。
すでにこうやって解決策が分かっていることを「知識」というですが,極端に言えば「1+1=2」ってわかってることを「なんで1+1=2なんだろう」と考えてしまうのって時間の無駄じゃないですか?(数学者とか,それを身につける段階では必要ですが)
じゃあ僕たちがすべきことって何かっていうと,すでに既知の知識を使って,未知な問題を解決していくことじゃないですか。それにはおおいに頭を使い,時間を使い,お金を使うべきだと思うんですよね。
そこにリソースをつぎ込むことを「努力」と呼ぶわけで,すでに既知の知識は素直にインストールすれば良いと思うわけです。
でも世の中の人って,変えなくてもよいことをこねくりまわして複雑化して,変えてしまって,本来すべきことをやってないという人が多いのです。
厳しい言い方をすると,これを「無駄な努力」と言います。そこにいくら大量の時間を費やしても厳しくないですか?
「自分で考えろ!」ってよく言われますが,既知の知識に対して自分で考えてもダメですよ。既知の知識を使って,未知の問題を解決するということに「自分で考える」ということが必要なのです。
そこがズレていると「私,頑張ってるのに報われない!」ということになります。本当に気をつけてください。